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日々つれづれ 12年10月
テーマ 「 かんなづき 」 |
【12年10月30日 河野裕】 |
語源のよくわからない言葉というのが世の中にはたくさんあって、そのうちの1つが神無月です。
こういう「なぜそう言い始めたのかわからない。諸説あるけれど、どれが真実なのか今となってはもうはっきりしない」言葉というのは、なんだか不思議です。
とにかくどこかの誰かが言い始めたのだから、昔、その当人たちは成り立ちを知っていたはずです。
なのに今後人類が「絶対的な真理」としてその言葉の成り立ちを知ることって、もう未来永劫ないんじゃないかなと思います。それぞれが「私はこの説が正しいんじゃないかと思う」と信じるしかないわけです。
どんなに科学的に大きな発見があっても、今は到底、不可能だと思えることが当たり前のようにできる時代がきても、「成り立ちがわからない言葉」が存在し続けるのだろうかと考えると、言葉というのは面白いものだな、と思います。
もっというなら、大抵の言葉が突き詰めると「語源のわからない言葉」になるのではないでしょうか。
例えば「りんご」という言葉があります。大抵の人が知っている言葉です。
ではなぜ、りんごはりんごと呼ばれるのだろう? そう考えると、私には答えがわかりませんでした。
りんごは漢字表記で「林檎」です。簡単に調べてみたところ、どうやらこの「檎」という字は鳥を意味するようです。りんごが生る林には多くの鳥が集まったから「林檎」と呼ばれるようになりました。ふむふむなるほどと頷いてしまう答えです。
では、じゃあどうして鳥を「檎」と言っていたのか? 林はなぜ林なのか? そういう風に「理由の理由」まで追及しはじめると、結局はどこかでわからなくなってしまうでしょう。
最後には、「とにかく、そう決まったんだよ」と言ってしまうしかなくなるはずです。「なぜだかはわからないよ。でも、ずっと昔に、とにかくそう決まったんだ」。こんな風に割り切るしかないんじゃないかな、と思います。
あるいは「かんなづき」だって、誰かが、とにかくそう決めたのかもしれません。「今月は神無月っていうことにしようよ」「神が無い月なんて、なんか恰好いいじゃん」みたいなノリで。もちろん「かんなづき」に関してはもっと説得力のある説があるわけですが、少なくとも今生きている人は誰も、「これが絶対に真実だ」と証明することはできないはずです。
当然「神」も「無」も「月」も別の誰かがそう決めて、「神無月」という言葉ができた時にはもうすでに、当たり前に使われていたわけです。もしかしたら、どうして「神」が「神」という言葉で呼ばれるようになったのかも知らないまま、「神無月」という言葉を創ったのかもしれません。
成り立ちがはっきりしない、基盤部分がわからないものを、生まれた瞬間には「おぎゃあ」しか知らなかった人たちが意思伝達の手段として平然と使えるようになるのはとても凄いことだなと思います。
あと、まったく関係ないのだけど、「神無月」っていい言葉ですよね。
残りの11か月には神がいることを示唆してくれているわけで、今月ダメでも「まぁ来月になれば神さまも帰ってくるんだし」みたいな気安さを感じます。
そろそろ10月も終わるので、なむなむと言いながら日々を過ごそうと思います。 |
【12年10月24日 川人忠明】 |
神無月というのは、旧暦でいう10月のこと。
10月といえば、「体育の日」。すこし前までは、10月10日と決まっていましたが、法律が変わったせいで、2000年からは「10月の第2月曜日」ということになりました。理由は、連休を増やすため――ハッピーマンデー、だそうです。
体育の日以外にも、いくつかの祝日がハッピーマンデーに変わってしまいましたね。成人の日とか敬老の日とか。確かに、お祝い事をするには、連休のほうが都合がいいかもしれません。
子供の頃は、火曜日が祝日だと、日曜日に休んで、月曜日に勉強や仕事をして、火曜日また休みという感じになるので、「どうせなら月曜日も休みならいいのに」と思ったものです。
しかし、個人的には、祝日は「10月10日」みたいにはっきり日付が決まっているほうが好きです。そのほうが、「この日を祝ってるんだ!」って感じがしませんか?
で、「体育の日」ですが。
むかしは、町民体育祭というのが催されていました。この体育祭は、中学校の校庭を借りて、町民が運動会を繰り広げるというものでした。町内は、第1分団とか第2分団とかにわかれていて、それぞれでリレーをしたり綱引きをしたり、総合成績を競うわけです。田舎の小さな町でしたが、それなりに大きなイベントで、ぐるりと出店が出ていて、子供にはそちらのほうが楽しみでした。
それから、体育の日とは関係ないですが、10月には、実家の近くにあった若宮神社のお祭りがありました。夜中に、町内を山車が巡るんですが、これには女の子の格好をさせた子供が乗っていて、太鼓を叩くのです。家々の軒先には、提灯が吊されていて、いい風情でした。
けれど、いつの間にか、町民体育祭も開かれなくなり、お祭りもなくなりました。町に人が減ってしまったからかな、と思います。あるいは、そういうイベントを世話してくれていたお年寄りの人たちがいなくなったからかもしれません。
しかし、そういうイベントがなくなると、どんどん町はさびしくなります。人も、いなくなります。いえ、本当のところ、田んぼがマンションになって、人の数自体はそれほど変わっていないのかもしれません。むしろ、増えているのかもしれません。
それでも、町がさびしいのは、やはりむかしながらの人の輪がなくなって、そういうイベントができなくなっていったからかもしれません。いや、逆なのかな? 町民体育祭とかお祭りとか、そんなイベントをしなくなったから、人の輪がなくなってしまったんでしゃないでしょうか?
できることなら、あの町民体育祭やお祭りを、もう一度やってもらいたいと思います。
町民が一堂に会して、校庭を駆け回り、出店が賑わう。
夜の通りに提灯が灯りが浮かび、太鼓の音を響かせて、山車が巡る。
そんな光景をもう一度――なんてのは、たぶん「神無き月」の幻なんでしょうね。
「…………えっ? 終わりですか? いつものアレはないんですか? ばんざーーいってヤツ」
なんだよ、人がせっかくたまにはしっとり終わろうとしてんのに。
いつも、バカにしてるじゃないか。それともなにか? やっぱり本当は好きなのか?
「いや、別に、好きじゃないですが……なんか、物足りないっていうか……やっぱり、締めみたいなのは必要だと思うんですね。好き嫌いじゃなくて」
ええー。でも、好きじゃないんだよね?
好きじゃないのに、やってくれって言われてもなあ。そんなにすぐ思いつかないしィー(−o−)
「わかりました。好きです。かなり好きです。だから、やってください。お願いします」
うーん。そこまで言うなら仕方ないなあ。
じゃあ、今回は、神無月には神様たちが出雲大社に集まるという言い伝えから考えた徳島センスだ!
今月の徳島センス:神無月には、出雲にかんならず来てねー!
ばんざーーーーーーい!! |
【12年10月18日 安田均】 |
神無月
10月を神無月というからには、神がいない月かと思うと、そうでもあり、そうでもないらしい。
無は「無い」というよりも「の」であり、「神の月」ということで、梅雨の6月を「水無月」というのと同じという説が一般的だ。
もう一つ、この月は神様がみんな出雲に集まるので、神がいない月だから「神無月」だと、島根出身の柘植めぐみから註釈が入った。そうなのか、そういえば神様の集会が出雲であるというのは聞いたことがある。
というわけでもないけれど、今月はぼくにとっては「神無月」ならぬ「芸無月」、つまり「ゲームの月」。毎年恒例の世界最大のゲーム大会「エッセン・シュピール」に向かうときでもある。
いまもこれは、空路フランクフルトに着いて、ホテルに向かうICE(ドイツ新幹線)で書いている。
明日からの大会で、どんな新作が出ているのか、大いに楽しみ。とはいえ、最近は情報化時代でもあるので、おおよその新作については先出し情報が出ている。われわれの「シルク・ドゥ・モンスター」もヤポンブランドさんのカタログ情報に前もって載せてもらったりしているし。
それでも、なんと500にものぼる新作のなかには、一般の話題作以外にもぼくの気になる作品はいくつもある。
特に目につくのは、前年来のダイスを使ったボードゲームだが、ぼくはこれ以外にもストーリーと結びつくタイプのボードゲームがちらほらあるのに期待大。うち一つは、かつて「ヴァンパイア」を作ったヘイゲンがストーリー系のボードゲームを出すらしいので、それにも注目している。他にもコスモス社からも、その種作品が出るらしいしね。こちらで開発している「ゴーストハンター13」や「ルッテ・ノーブル」などがそうした流れにあるのかもチェックできるしね。
さあ、明日から世界の神々ならぬゲーマーが集まる「芸無月」。
ワクワクしない方がおかしい。 |
【12年10月16日 河端ジュン一】 |
神無月といえば旧暦ですね。そういえば私はこの年になって、古いものへの関心が昔よりも高まっている気がします。
たとえば映画だと、遅ればせながら最近初めて『十二人の怒れる男』を見ました(後輩からのお勧めキッカケってのがまた情けないのですが;)。
1957年のアメリカ映画です。ストーリーは、陪審員として無作為に集められた12人が、密室の中でひたすら、「容疑者の少年は有罪か無罪か」を話し続ける、というもの。
ちなみに少年は有罪になると死刑です。
冒頭で、12人中11人が「有罪」とする中、1人だけが「無罪」とし「たった5分で人の生き死にを決めるのは気が早い。もっとちゃんと話し合いたい」みたいなことを言って、それからお話が進んでいきます。
この作品、名作と言われているだけあって非常に面白かったわけですが、私が特に「おっ?」と興味を惹かれた点は2つでした。
1つが「有罪か無罪か、12人全員の意見が一致しないと帰れない」という陪審員のルール。
なにせ、このルールこそが「映画の始まりから終わりまで、ひたすら密室に籠り続ける12人の男」という異質かつ面白い空間を作り出すキモになっています。
そして、さらに面白いのは、この異質さにはなんだか妙な既視感があるということです。
私の場合、まず思い出したのは、中学生の頃に観た劇場版『バトルロワイヤル』でした。中学生まるまる1クラスが、ある島に連れてこられて、最後の1人になるまで殺しあう、という超ショッキングなストーリー。近いところでは『ライアーゲーム』『賭博黙示録カイジ』『インシテミル』などもあるでしょうか(あくまで主観です)。
ざっくりとまとめるなら、複数の人間が一堂に集められ、同じルール下で対話する。ときにはカマをかけたり、腹の底を読んで他人を誘導したりもする――そういう共通点を、上記した作品はどれもが持っています。
つまり、思ったのは、この特徴って、テーブルゲームと同じじゃね?ということです(そりゃあ、ライアーゲームなんてゲームって言ってますからね笑)。
で、そこから何を考えたかというと――このように今挙げた「ゲーム的作品」すべてが、メディアミックスされるほどの注目作になったという時代の流れも気になる点ではあるのですが――それはおいといて。
今回の『十二人の怒れる男』の場面設定をゲームとして見ると、ゲームの終了条件と勝利条件は何でしょう?
たぶんゲーム終了条件は「12人全員が同じ判決を出すこと」でしょうか。他になさそうだし。
そうなると、勝利条件は? ……んー、そもそもあるのでしょうか? 個々のプレイヤーに明確な勝利条件は設定なんて。
見ていたところ、少なくとも「有罪にしたら勝ち」「無罪にしたら勝ち」という単純なものでもないようです。もちろん「犯罪者のことなんてどうでもいい。さっさと終わらせて帰りたい」=「12人が同じ判決さえ出せばそれこそ俺にとっての勝ち」みたいなキャラクターもいるにはいるのですが……とはいえ、12人全員がそういったキャラばかりではないみたいですし、それどころか、各キャラクターは会話の中で自らの勝利条件を模索しているようにすら見えました。
ということは、強いて勝利条件を挙げるなら「プレイヤー全員が本当に納得して判決を出し、その上でゲームを終了すること」?
なんだか、TRPGに近くなってきましたね(もちろん、これもあくまで映画をエンターテイメント作品として見たときの主観です)。
さて、ここで興味を引かれた点2つ目の話。
それは「96分、人間がただ話しているだけの映画がこんなにも面白いのか」という点です。
仮にですが、この映画が「密室の子猫12匹をただ映した96分」なら私は確実に寝ていた自信があります(いや、もちろん退屈ってだけでなく、めちゃくちゃ癒された結果でもありますけども)。
つまり思ったのは――なんというか今さらすぎるのですけれど――人間がもっとも興味あるのって、やっぱり人間とのコミュニケーションなのだなー、ということです。それはゲームにもなるし、映画にもなる。
12人とは言わずとも4人なり5人なり、ひとつの部屋に集ってそれぞれの勝利条件を目指す。
その行為には一体どれほどの可能性があるのだろう、と静かな興奮を覚えた、とある休日のお話でした。 |
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